水車のついた家の屋根に、一人の少女が腰を下ろしている。その真紅の瞳に、沈みゆく緋色の光が映る。
少女はゆっくりと、視線を空から下へと向ける。眼下には、朱色に染まっていく村の姿があった。
その姿形は、彼女が最初にこの村を、彼につれられて訪れた時からなんら変わりはしない。けれど、明らかな変化があった。
彼女には、洗濯物をしまうクラヴァットの女性も、そのすぐ傍で元気に走り回るセルキーとリルティの少年たちも、
そんな彼らを横目にしながら本をめくるユークの男性の姿も、何ひとつ見つけることができなかった。
――シャク・シィねーちゃ!――
彼女は少し首を伸ばして、自分がいる屋根の下を覗き込んだ。
――そんなところにいたら、イリーナに怒られちゃうよ!――
そうやって笑いかけてきた女の子の笑顔が、潤んだ瞳に混ざり合って消えなかった。けれどそれは、実際に目にすることは、もう、叶わない。
「……約束、守れなかったね……」
いつか、イリーナにはばれないように、エリルにもこの景色を見せてあげるね。そう、約束したのに。
シャク・シィはひざを抱え、顔をうずめた。
あの日、最後にエリルとウァルトリールが、あるべき場所へと還った日。シャク・シィはノルシュターレンと一緒にわんわんと泣きはらした。
だが彼は、コウスイは、ただただじっと耐えていた。家族が一人、また一人と消えていく中で、彼はけっして涙を見せなかった。
少しぎこちない笑顔を浮かべながら、何度も感謝の言葉を家族へとかけ、みんなを見送っていた。
――けど――
ここ最近、村で寝泊りしている時、コウスイは夜中に出歩くことが多々あった。誰にも気づかれないように、一人で。
どうしても気になって、シャク・シィは一度だけ、彼の後をつけたことがあった。
――けど――
クリスタル・コアのあった泉。その場所で彼は立ち止まった。木の幹越しに見た彼の背中はひどく小さく、そして、強く震えているように見えた。
彼を慰めたかった。彼の力になりたかった。けれども、かける言葉が見つからず、結局シャク・シィはその場を立ち去っていた。
物心つく前から、ずっと一緒に過ごしてきた人たちが、次々にいなくなっていく。
それがどれだけ悲しくて、どれだけ恐ろしいことなのか。彼女に計り知ることはできなかった。
ただシャク・シィは、自分が親しくなった人たちが消えていくこと以上に、コウスイが追い詰められていくのが辛かった。
そして、この状況の中、彼女が何を思っているのかが気がかりだった。
――もし、このままだと――
ふと気がつけば、目の前の風景からは緋色がすべて取り払われていた。すっかり、夜の帳に覆われた村の中で、光の灯る場所が二つだけあった。
ひとつは、ウァルトリールが、そして彼の弟子であったノルシュターレンの住んでいる、木の葉をまぶしたようなテントの簡素な家屋。
もうひとつは、自分たちが普段お世話になっている場所、コウスイが長年暮らしていた家だ。
「――シェルロッタ」
その家の持ち主であり、今この時、コウスイと一緒にいるであろう彼女の名前を呟いてから、シャク・シィはそっと目を閉じた。
*
「……」
夕食の後片づけをする息子の背中を、少女はベッドの上でうつ伏せになりながら、じっと見つめていた。
「――や、やはり、私も手伝おうか!?」
少しうわづった声を出しながら、シェルロッタは上半身を起こした。そんな彼女をちらりと見て、コウスイは手を振って微笑んだ。
「大丈夫だよ。二人分だけだし、すぐに終わるから」
そう言うと、すぐに手元に向き直る。そのままでいるのもばつが悪いので、とりあえずシェルロッタは姿勢を変える。
ベッドの上で正座しながら、再びコウスイの背中を眺める。
「……まったく、何をやっているんだ、私は……」
膝の上の両手に視線を落とす。思わずため息が漏れる。
今までならコウスイのギルド仲間で賑わっていた家だが、今は彼と自分の二人しかいない。
昔の生活に戻っただけのはずなのに、家の中がやたら広く思える。
他のメンバーは今夜、ノルシュターレンと一緒に、彼女が世話になっていたウァルトリールの家に泊まると言っていた。
彼らは、ノルシュターレン一人にしない方がいいし、彼女が慣れ親しんだ家の方がいいだろう、などと色々並べていたが、
メンバーとノルシュターレンの思惑にはすぐに気がついた。
そして、発案者であろう、彼女の真意も、シェルロッタはすでに知っていた。だが――
ふと顔を上げて、シェルロッタは目をみはった。視界の中に、コウスイの姿がなかったからだ。
少し慌ててあたりを見回すと、すぐに彼の顔が目に留まった。
「あ、ごめん、驚かせた?」
となりのベッドに腰かけながら、コウスイはシェルロッタの方をじっと見つめていた。
「い、いつからそこに!?」
「? えっと……数分ぐらい前、かな」
シェルロッタは落ちつくと、コウスイの方へと向き直った。二つ並んだベッドの上で、二つの顔が向かい合う。
「なんだか、考え込んでいたみたいだから、声を掛けていいのかなぁ、って」
「……だ、だからと言って、じっと人の顔を見ていなくてもいいだろうが!
そういう時は、アレだ、こう、何か別のことに集中しているふりをしながら、さりげなく、気をくばっていればいいんだ。うん」
腕を組んで何度も少女はうなづいた。そんな彼女に対して、少年は苦笑しながら反論した。
「でもさ。昔、僕がまだ小さかった頃の話だけど、今言ったみたいな事をしたら、シェルロッタ、どうしたっけ?」
「うっ……そ、それは」
それはずいぶんと昔のことであり、コウスイが覚えているとは思わなかった。が、シェルロッタははっきり覚えていた。
あれはいつの頃だったか。コウスイの育て方について、一児の母であったセルキーのトラトと口論になったことがあった。
トラトの言うことは正しいと思ったが、どうしても頭から受け入れることができなかった。
逃げるようにその場を去ると、シェルロッタは橋の上で落ち込んでいた。
そうして一人、足を宙でぶらぶらさせながらふてくされていると、ふいに、
とてとて
と、聞きなれた音が木製の橋に響いてきた。だが後ろを振り返ってみると、周りには誰もいない。
かと思ったら、シェルロッタの座っている橋の向こう側、橋の下への道が続き、ちょっとした土手のようなった場所。
たびたびオルジィが腰をおろして釣りをしている一角から、小さな紺色の頭がちらちらとのぞいていた。
上半身を捻ってそちらを見ていると、手のひらに何かがあたった。
つまんで手にとって見ると、それは森でよく見かける木の実、子どもたちがちょくちょく集めて溜め込んでいる代物だった。
それを戻して、また水面を見ていると、ふたたび、
とてとて
と音が聞こえた。だが振り向くと姿はなく、よく見ると、さっきの木の実が少し増えていた。
「――それを五、六回繰り返してたら、木の実を置こうとした瞬間に腕を掴まれて、そのまま膝の上に載せられたんだよね。
『気になってしょうがないから、ちゃんと傍にいろっ!』 って、言われてさ」
「い、いや! あれはお前がうろちょろしすぎで――、そもそも、それとこれとは話が違うだろ!
私が言いたいのはだな、もっとこう……アレだ、今のお前の年にあった振る舞いというやつがだな」
「そんなこと言われてもなぁ、……女の人の扱い方なんて、今も昔もさっぱりわからないよ」
ぺしっ、と、何かがコウスイの膝を叩いた。紺色の薄布に包まれたしなやかな足先が、ぺしぺしと彼の膝の上で暴れていた。
「ふーん、へー、ほー」
二つのベッドの間に二本の橋を渡しながら、シェルロッタは猫のように目を細めて息子の顔を眺めている。
「……その……どうかした?」
「いやー、べーつーにー、……ただ」
ほんの少し、年には不相応の、だがそのかわいらしい姿には相応のふくんだ笑みを彼女は浮かべる。
「――お前の仲間たちが聞いたら、きっと、今の私と同じような顔をするだろーなー、っと思ってな」
「ええ!? なんで?」
困惑するコウスイを尻目に、シェルロッタはコロコロと笑っている。
「そうだな、今更どうこう言う必要もないな。――コウスイ。
私はな、何だかんだ言っても、お前の普段の働きだけで、十分に皆の役に立てていると思うぞ?」
この親馬鹿が。と、ユークの青年の声が聞こえたような気がした。だが事実だ。
シェルロッタにとっては、自慢の息子が傍にいることが、何よりの支えだった。
どんな形にせよ、その子が自分のために何かしてくれたのならば、何よりも嬉しかった。
そして、それはきっと、この村にいたすべての仲間たちにとっても、そうだったはずだ。
「……そっか、ありがとう」
コウスイは照れたように笑った。だが一瞬、その表情が陰ったことを、シェルロッタは見逃さなかった。
「コウスイ? どうかしたか?」
「え? あ、いや、うん。……こうして二人っきりで話をするのも、ずいぶんと久しぶりだな、と思って」
明らかに話を逸らしたと感じたが、シェルロッタは軽くうなづいて見せた。
コウスイの成人の儀。ラーケイクスの暗躍。砕け散ったクリスタル・コア。
それまで平穏だった世界に、様々な出来事が津波のように押し寄せてきた。
そして、コウスイが村の真実を知ったその日から、シェルロッタは彼と、その仲間たちと共に行動していた。
コウスイが村を出るようになった頃に比べれば、一緒にいる時間は増えていた。だが、二人だけになる機会はめったになかった。
「……だからこそ、あいつらも気を利かせたのだろうな」
要らぬ世話。などとは口が裂けても言えない。けれど、素直に喜んでいるわけにもいかなかった。
それは、この機会を用意したわけが、ただ単に少なくなってしまったコウスイとの語らいを増やすという意味ではなく、
今後、そうした機会が、もう、やってこなくなると危惧しているからだ。
少なくとも、あの娘は、シャク・シィは、うすうす感づいている。
日が暮れる前、彼女が呟いたひと言が、胸をよぎる。
――こわいんだ――
いつのまにか、コウスイと二人きりで一晩過ごすことに決まった時、シェルロッタは隙をみて、首謀者であろうセルキーの少女を問い詰めていた。
彼女は、たどたどしく言葉を選びながらも、はっきりと、自分の考えを述べていった。
――このまま、コウスイが、痛みや後悔ばかり抱えていくのが――
今にも泣き出しそうな顔に、無理やりに笑顔を浮かべて。
――そうなった時、わたしじゃきっと、助けてあげられない――
シャク・シィはしっかりと理解していた。あくまでコウスイのためだと念を押せば、私の背中を強く押すことができると。
無論、あの娘がコウスイのことを大切に思い、それ故、私を頼ってきたのは事実だろう。
だが同時に、彼女は、私のことをも救おうとしている。
「――なあ、コウスイ。お前は、シャク・シィのこと、どう思っているんだ?」
予想通り、一瞬硬直したかと思えば、コウスイはすぐにうろたえだした。あっという間に耳まで真っ赤になる。
「え!? いや、その、どう思う、って……」
また意地悪な笑みを浮かべながら、シェルロッタはつま先で軽くコウスイをつついた。
「……何をやっているんだ? あの娘の性格や気質について、これまで一緒にいてどう思うかと聞いているんだ」
「あ、そういうことか。うん、そうだな……」
腕を組み、コウスイは少し視線を落としてから思案を巡らす。
シャク・シィに言われるまで気がつかなかったが、確かにこれは自分と同じ癖だな、と、シェルロッタは苦笑した。
数秒の後にコウスイは、ゆっくりと言葉をつむぎ始めた。
「――元気で、明るくて、少し子どもっぽいところもあるけれど、ギルドの中で一番、みんなのことを考えてくれている人だと思う」
「……」
「けど、優しいんだね、って言うと、そんなことない、ってすごく否定するんだ。……何でなんだろう?」
「……そうだな」
何故なのか? そんなことはシェルロッタはとうに知っている。
シャク・シィは、誰よりも人の心の動きに敏感な娘だった。
それは、村で過ごしている時の彼女たちを見ていても感じていたが、ここ最近、行動を共にしている間に、それがよりはっきりとした。
彼女は、誰かが心を閉ざすこと、偽ることを極端に気にしていた。
ほんの些細な事でも、身内が一人で考え込んだり、落ち込んだりしていると、すぐにその傍らに寄り添っていた。
そうして、相手が笑ってくれるまで、心が晴れるまで、おしゃべりをしたり、おどけて見せていた。
そんな彼女を、鬱陶しいと思う者もいるかもしれない。だがギルドのメンバーで、いや、この村の住人たちでも、彼女を好いていない者はいなかった。
だが――
――わたしは、優しい奴なんかじゃないよ――
シャク・シィは、そうやってすぐに否定する。それはあの娘が、自分のことを臆病な人間だと思っているからだ。
――どうしても、みんなのことが気になって、そして、こわくてしかたがないんだ――
自分が一人になるのが嫌だから、誰かが一人になるのが嫌なんだ。そう、シャク・シィは呟いたことがあった。
自分の行動は、所詮、利己的なものでしかない。そう思い悩む気持ちは、シェルロッタにもあった。
自分はいつだってコウスイのことを気に掛け、この子のことを一番に思って生きてきた。
けれどそれは結局のところ、自分のエゴでしかないのではないだろうか。
「……あの娘は、誰かに優しくして欲しいから、人に優しくする。寂しいのが嫌だから、人を寂しくさせないようにする。
……けど、そのことを恥じているんだよ」
シェルロッタの言葉に、コウスイは強くかぶりを振った。
「恥じることなんてない。……そんなのは、当たり前に思うことじゃないか」
「そうだな、私も極々自然なことだと思う。……だがな、物事には常にあらゆる側面がある」
シェルロッタは諭すように、自分の考えを述べて見せた。
「どの面が重要か、どの面が大切か、それは人によって異なる。
物事の本質は容易く判断できるものではなく、それぞれの見解で答えを出そうとするものだ。
どんなに他者が答えを導いても、どんなにそれが真理に近くても、本人が納得できなければ、それはその者にとって意味をなさない。
シャク・シィにとっては――」
不意に声を切り、シェルロッタは立ち上がった。そんな彼女を、コウスイは片手で顔を覆いながら、もう片方の手で制した。
「あはは、ごめん。なんでもない、なんでもないから」
そうやって笑いながら、コウスイは手の甲で両目を拭った。だが彼の頬には、雫がとめどなく流れ落ちていく。
「――コウスイ」
「ごめん。ほんとに、ごめん」
ただただ、コウスイは泣いていた。ばつの悪そうな顔で、必死に涙を止めようとしている。
シェルロッタはそんな息子を見守っていたが、数歩前に出ると、コウスイの頭を抱き寄せ、自分の顔を近づけた。
「――話してくれ、コウスイ」
「――っ」
「頼む。私が駄目なら、シャク・シィや、他の者でもいい。……だが、そうやって、一人で抱え込まないでくれ」
「……シェルロッタ……」
コウスイは声を押し殺しながら、泣きじゃくり。シェルロッタは、そんな彼の髪を優しくなでていた。
それはずいぶんと、懐かしい光景だった。
「――今、シェルロッタが言ったよね」
どれくらいの時が流れただろう。少し落ち着いた声で、コウスイは問いかけた。
「誰かが何を言ったとしても、それが、本人を納得させなければ意味がない、って……」
「……ああ」
「……」
シェルロッタは強くコウスイを抱きしめた。
「……納得、出来ないのか?」
「――うん」
ベッドの上で握られていたこぶしが、さらにきつくシーツを巻き込んだ。
「――みんな、エリルも、イリーナも、リアン、ウルズ、フェルプル、トラト、トゥムリー、ウァルトリール、バチェン、オルジィ――」
一息に、村の家族の名前を叫ぶ。
「みんな、みんな僕と一緒にいられて嬉しかったって、幸せだったって、言ってくれた。
けど――
僕はみんなに、ちゃんと返してあげられなかった……僕もみんなと一緒にいて幸せだったって、ありがとうって!
何も、何もちゃんと答えてあげられなかった!」
「コウスイ、そんなことは――」
「僕は! 僕は――みんなが僕にしてくれたように、僕もちゃんと、みんなのために何かしてあげたかったんだ!」
声を荒げるコウスイの目から、また、雫がこぼれる。
「……成人すれば、一人前になれば、それができるって。……やっと、みんなの役に立てるって、ずっと……思ってたのに――」
足りないよ。こんなんじゃ、全然。そう吐き捨てたコウスイの口から、嗚咽が漏れ出す。
そんな彼に、シェルロッタは優しく問いかけた。
「……そうか、ずっとお前は、私たちに恩返しがしたかったんだな?」
母親の胸の中で、コウスイは小さくうなづいた。
――ああ、これが、この子の苦しんでいた理由か。
村の者は皆、ただただコウスイに尽くしてきた。それだけが、私たちの存在理由だったからだ。
そして、その先などは考えてもいなかった。
誰もが、無事にこの子が成長して、村を出ていくことを願っていた。
そうすれば、私たちの真実を知り、この子が悲しまずに済むと思っていたからだ。
私たちは、この子と同じ時を生きてはいない。そう誰もが思っていた。
けど、この子は違ったのだ。
この子にとって私たちは、永遠に傍にいるはずの家族だったのだから。
「――コウスイ」
私たちがこの子を愛していたように、この子もまた、私たちを愛してくれていた。
そして、私たちがそれを何度も形にしたように、この子もまた、私たちにもっと示して見せたかったのだ。
「……わかるよ、言えるわけがないってことは。みんなだって、きっと辛かったんだって。
でも……でもやっぱり、もっと早くに教えて欲しかった。本当のことを話して欲しかった。
そうすれば、少しでも後悔しなくて済んだかもしれない」
それができなかったから、コウスイは今、苦しんでいる。
ならば、どうすればいい? どうすれば、この子にちゃんと答えられたと納得させることができる?
どうすれば――
「――シャク・シィ」
シェルロッタは、声に出さずにセルキーの少女の名を呼んだ。
お前は、気づいていたのか? どうしてコウスイが苦しんでいるのか。どうすれば、救うことができるのか。
私が――何をすべきなのか。
「コウスイ、お前は、私たちにちゃんと恩返しがしたかったんだよな?」
「……うん」
「ならば……ひとつだけ、私の頼みを聞いてはくれないか?」
「……シェルロッタの、お願い?」
コウスイは少し目を見開いて、真っ赤になった瞳で彼女の顔を見上げた。だがすぐに、こくんとうなづいて見せた。
「うん。僕にできることなら、いくつでも」
さっきとは違い、はっきりとした口調で答える。
「いや、ひとつで十分だ。……お前は、軽蔑するかもしれないがな」
「え? それって――」
どういう意味? そう問うとした言葉は、コウスイの口から漏れることはなかった。
シェルロッタの真赤な唇が彼の口に蓋をして、言葉を飲み込んでしまったからだ。
「んっ――」
ほんの数秒唇を重ねてから、ゆっくりとシェルロッタは体を離した。
突然のことに呆然とするコウスイに、自嘲気味に話しかける。
「……私はね、コウスイ。お前のことが大好きなんだ」
両方の手で、涙の乾いた頬をなでる。
「だがそれは、イリーナやトラトの様でも、エリルの様でもない。きっとこれは、シャク・シィと同じ感情なんだ。
私は――私は一人の女として、お前のことを愛している」
「シェル……ロッタ……」
「自分でも正気だとは思えない。お前のことをあんな小さな頃から知っていて、誰よりも母親として接してきたはずなのに
……いつのまにか、こんな感情を抱いてしまった」
浅ましいだろう? そう言ってシェルロッタは悲しげに笑った。
本当なら、胸の打ちに秘めて、この子にはけっして明かすまいとしていた思いだ。
「軽蔑してくれて構わない。ただ、ただひとつだけ、私の願いを聞いて欲しい」
この気持ちを明かせば、きっと元には戻れなくなる。コウスイを苦しめ、そして、嫌われるであろうことはわかっていた。
だが今、自分の胸のうちをさらけ出すことが、意味のあることだとシェルロッタは感じていた。
シェルロッタはゆっくりとベッドに手をかけた。コウスイの膝の上に向かい合わせに座り、彼の肩に顔をうずめる。
「……私を、抱いてはくれないか?」
コウスイの体が強張ったことは、予想通りだった。
無理もない。何よりシェルロッタが、無茶な話だとわかっていた。
「それって――」
「頼む。今宵一晩だけ、お前の家族としてではなく、一人の女として、扱って欲しいんだ」
「……」
シーツを掴んでいた両手がゆっくりと動き、シェルロッタの背中へとまわされた。
コウスイの胸へと、華奢な体が押し当てられる。
「軽蔑なんて……するわけないじゃないか」
コウスイは、こうして抱きしめたてからやっと、シェルロッタの身体が震えていることに気がついた。
そして、シェルロッタの身体がずいぶんと小さくなっていることにも。
つい最近まで、そんな風に思うことなど、まるでなかったのに。
「――嬉しいよ、そんなに思っていてくれたこと。それに……ちゃんと、教えてくれたこと」
そっと、シェルロッタはコウスイから身体を離す。互いの瞳の中に、ずいぶんと澄んだ自分の顔が見える。
もう一度、シェルロッタは顔を近づける。今度はコウスイの方からも、唇を差し出す。
何年ぶりだろう? この子の心臓の音を、こんなにもはっきりと聞いたのは。そう思いながら、シェルロッタはそっと目を閉じた。
*
「――シャク・シィ」
「――っ!?」
こっくりこっくりと、舟をこいでいたセルキーの少女は、屋根の上で飛び起きた。
ノルシュターレンやメンバーと夕食を済ませた後、再びシャク・シィは、村で一番高い家の屋根に座っていた。
村と、星々の灯りを見ているうちに、寝入ってしまったようだ。
そう、自分の状況を確認しながら、シャク・シィは慌てて後ろを振り返った。
「こんなところで、そんな格好で寝ていては、身体を壊すぞ?」
「――シェルロッタ!?」
いつものように尻尾をふわふわさせながら、猫娘はセルキー娘の隣に腰を下ろした。
「あいつらと一緒にいるかと思えば、まさかこんなところにいるとはな。見つけるのに時間が掛かったぞ」
「!? なんで、ここに? もしかして――」
「ああ、安心しろ。コウスイとのことなら、……お前の目論見通り、全部明かしてしまったよ」
「も、目論見なんて……その、あははは」
じとー、と睨むシェルロッタの瞳から、思わずシャク・シィは座ったまま横へとずれていく。
が、それを追うようにシェルロッタもにじり寄る。
「まったく、おかげで母親の威厳もなにも、あったものじゃないぞ」
「あはは。……勝手なことだとは思う。けどさ、やっぱり私は、ちゃんと話すべきだと思ったんだ」
前髪をいじりながら、シャク・シィは呟く。
「本当の思いを知って、それをちゃんと受け止めれば、きっと、後悔なんてしなくて済む。
……怖いことだけど、やっぱりそれが一番だと思う」
他人事だと、簡単に言っちゃえるんだけどね。頭を掻く少女に向かって、シェルロッタは心の中で呟いた。
他人事だと思っているなら、こんなところにお前はいないだろう。
「――お前は、どこまで理解していたんだ?」
「……」
シェルロッタの言葉に、シャク・シィは少し言葉に詰まった。そしてゆっくりと、首を横に振った。
「……わかんないよ」
「……そうか」
「……うん。ただ、わたしじゃダメなのは……わかってた。
これはきっと、ずっとコウスイと一緒にいた人にしか、できないことなんだって」
「……」
シェルロッタはシャク・シィの肩を引き寄せると、自分の膝の上に彼女を倒した。
「シェルロッタ?」
「ならば、お前にしかできないことを、やってはくれないか?」
体制を変えて、シャク・シィはシェルロッタの方を見上げた、おだやかに微笑む彼女の顔が、月明かりに映える。
「……一緒に来て欲しい」
「へ?」
「だから、その……あれだ、わたしと一緒に、コウスイの相手をして欲しい」
「……」
シャク・シィは素早く身体を起こした。
だが彼女が逃れるよりも早く、シェルロッタがそのむき出しのお腹にしっかりと腕をまわしていたので、離れることはできなかった。
「え? あ? ええっ!? そ、それって、つまり――」
「そんなに慌てるな。……言ってるこっちが、余計に恥ずかしくなるだろうが」
「だ、だって! なんでそんなことに!?」
「私をそんな風に焚きつけたのは、お前だろうが?」
「それは……その……そうゆうことになるだろーなーとは、思ってたけど」
もう一度シェルロッタの膝の上に戻ってから、シャク・シィは人差し指をつんつんと合わせる。
「でも、それとこれとは――」
「……お前は、コウスイが他の奴を抱いていても、なんとも思わないのか?」
「――っ!」
シャク・シィはシェルロッタの表情を伺った。だが、彼女は顔をあげ、空を見上げていたのでわからなかった。
数秒躊躇した後、シャク・シィは答えた。
「――ちょっと、嫌、かな。でも――」
「……うん、私もだよ」
一瞬、シャク・シィの身体が、びくっ、と震えた。そんな彼女の肩をシェルロッタはぽんぽんと、軽く叩く。
「ちがう、ちがう。責めてなどいないよ。
……確かに、お前に対して色々と思うことはあった、だがそれは、お前にだってあっただろう?
いや、今言いたいのは、そういうことではないんだ」
「じゃあ?」
「――あの子も、な。やはり気が咎めるらしい。まあ実際、浮気以外の何物でもないしな」
「うーん、そりゃそうだ」
シャク・シィとしては、今回は目を瞑るつもりでいたのだが。とはいっても、当の本人は知る由もない。
「……あれ? それじゃもしかして――」
「そ、そういう状況には、なったんだがな!
……あの子が気にしているのは見て取れたし、こっちから少し待って欲しいと言って、お前を探したんだ」
コウスイ、放置プレイかー。ちょっとかわいそうな気もするけど、まあ、しかたないよね。
そう、シャク・シィは結論づけた。
「と、言う訳で――」
シェルロッタはいやににっこりと、シャク・シィに微笑んだ。
それ以上、彼女が何も言わないので、おずおずとシャク・シィは確認した。
「……それって、つまり。二人一緒なら問題ない、ってこと?」
あまりに突拍子もない理論だったが、シェルロッタはすぐに肯定した。
「そういうことだ」
「コウスイが言ったの!?」
「言うと思うか?」
「いやー……無理だと思う」
「そういうことだ」
「うーん……流石に恥ずかしいよ、それは」
首をかしげてしり込みする少女に、もう一人の少女はきっぱりと言い放った。
「だいたい、お前のせいでこんな事になったんだぞ? なら、ちゃんと最後まで付き合ってくれ」
「それに……シェルロッタはそれで――あで!」
シャク・シィはとっさに額を押さえた。
「それと、ひとつ言っておくぞ」
彼女の額をはねた指先を、今度は鼻先に突きつける。
「私の心配をするなど、二千年早い! ……お前に主導権を取られてばかりじゃ、立つ瀬がないじゃないか」
普段、皆の前で振舞うような調子で、シェルロッタは笑っている。その笑顔が、シャク・シィは大好きだった。
「……しょうがない、か」
シャク・シィは苦笑しつつ立ち上がり、月に向かって背筋を伸ばした。そして次に、シェルロッタに手を差し出す。
その手を掴んで、シェルロッタも立ち上がる。
屋根の上から、二つの笑い声が漏れていた。だが、彼女たち以外に、それに気づいたものはいなかった。
*