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図書館へと続く石階段を、一人のリルティが逆に下っていく。あかね色の空を見上げながら、思わず彼は呟いていた。
借りた本を返却した後も、センは図書館で独自に調べ続けていた。現行の書には見切りをつけ、
古代語で記された文献をあさってみた。だが、結果は散々だった。
クリスタル病がどうこうという話ではなく、そもそも内容の半分もセンには理解できなかった。職業柄、遺跡に潜ったり、
今は亡き歴史の遺物に触れたりする機会がセンにはあった。そうするうちに、漠然ではありながらも
古代語の意味を汲み取ることができるようになっていた。とはいっても、よく使われる単語「方向」や「危険」などの交じった短文、
それがなんとなくでわかる程度であり、固有名詞の使われた長文となるとまったく歯が立たなかった。
結局の所センは、自分の数十倍の歳を持つ書物たちと、数時間もにらめっこをしているだけに終わってしまった。
「――調子に乗るな、ということだろうな」
かつて、センがまだ駆け出しの冒険者だった頃、似たようなことがあった。
自分の力を過信し、分相応なクエストに挑戦し、何一つままならず這々の体で帰還したことが。
あの頃よりはマシになった。そう思っていたのは、どうやら気のせいだったらしい。初心者の頃と同じ挫折を味わいながら、
センは歩みを進める。
そもそも、どうして自分はそこまで、彼を助けようとしているのだろうか?
直接助けを求められたわけでも、調べてくれと頼まれたわけでもない。それなのに、何かをせずにはいられなかった。
夕焼けに染まる町並みを目にし、センは足を止めた。おそらくもう、広場にあのクラヴァットの少年はいないだろう。その理由を、
センはさっき聞いたばかりだった。
図書館を出て行くとき、センはふと、司書の一人に尋ねてみた。ラーケイクス博士は、今どうしているのか、と。
すると、あの老人は帰ってからすぐに、図書館の奥にこもっているそうだ。何でも――
「さっき来た少年と取引をしたため、その準備をしている、か……」
少年というのが、あのクラヴァットの少年であることは間違いないだろう。約束の内容がクリスタル病についての情報なのか、
その病自体を直すことの出来るものなのか、センには見当もつかない。ただ、一つだけどうしてもふに落ちないことがあった。
取引。と、司書はいっていた。それがラーケイクス自身の言葉通りだとするのなら、彼はあの少年の要求に対し、
見返りを求めたということだろうか。
だとするのなら、いったい何を? そのことがセンは気がかりだった。
とはいっても、少年の方から見返りを提案した可能性も十分あるし、酒や、特産品といった単なる報酬の話かもしれない。
結局の所、疑う根拠はセンの不信感だけであり、推測の域にすら達してはいない。
センは大きく頭を振った。もうこれ以上、自分がやるべき事はあるまい。そう言い聞かせながら、再び歩を進める。
階段を下りる途中、噴水の姿がセンの目に映った。その瞬間、彼は思わず顔を歪めた。図書館から広場へと下る階段は、
途中から左右へと別れている。二つになったそれの間には噴水があり、絶え間なく水を散らしている。
この噴水は広場のシンボルでもあるが、砂漠の中心にあるこの地域において、水という命の象徴でもあった。
だが最近、その噴水に異変が起きていた。今までは清涼たる水が流れていたが、その水が急に悪臭を放ち始めていた。
おそらくは、噴水の水源である用水路に問題が起きたのだろうといわれている。用水路とはいっても、ほとんど管理はされておらず、
それどころかモンスターが棲息しているような場所であり、一般の人々には立ち寄りがたい所だった。そのため、
住民からギルドに原因の究明と解決が要請されたが、未だに何の音沙汰もない。
「飲料用の水源には問題ないみたいですしね。原因がよくわからない、臭いも最悪、実入りも少ない。……とくれば、
くじ引きででも決めない限り、誰も受けませんわよ」
クロエリが本当にそう言ったかは定かではない。だが、彼女なら間違いなくそう毒づいただろう。そんなことを考えながら、
センは階段を下り終え、宿へと向かって歩いていた。その時、水のぶつかる音に混じって、だれかの会話が耳に届いた。
「は? 用水路の場所を知りたい?」
「はい、お願いします!」
その声の主が誰か気づくのに、リルティには三歩かかった。すぐに背後を振り返ると、噴水のすぐ近くにクラヴァットとリルティの青年、
そしてその二人と会話をする少年の背中が目に飛び込んできた。
「その年でボランティア? えらいねー」
「いや、そういうわけではないですけど……」
紺色の髪の彼は、間違いなくあの少年だった。少年は二人に用水路の場所を聞くと深く頭を下げ、踵を返すとすぐさま走り出した。
「! まっ――」
自分の横を走り去った彼を、センはつい呼び止めようとした。だが、その言葉は飲み込まれてしまった。クリスタル病のこと、
ラーケイクスとの取引のこと、用水路に向かうわけ、尋ねたいことは山ほどある。だが、それを聞く権利が自分にあるとは、
センにはとうてい思えなかった。口をつぐみ、思わず挙げた手をゆっくり下ろした。
センは黙って、小さくなる彼の背中を見ていた。が、次の瞬間、センの目と口は大きく開かれていた。
時間帯のせいもあって、広場には人も少なく、クラヴァットの少年の姿は夕焼けの中ではっきりと見えていた。
その走り去る彼の影に、別の影が近づいていった。かと思うと、すぐにまた影が一つになった。そしてそのまま、動かなくなった。
あろうことか、突然現れた人物は、彼に横から体当たりをすると、そのまま地面に押し倒していた。センは慌てて走り出した。
「ボス! 被疑者の身柄、確保しました!」
セルキーの少女は片手を挙げ、駆け寄るセンに報告する。
「……君は、いったい、何をしているんだ!?」
思った通り、それは先刻センが知り会った、セルキーのシャク・シィだった。仰向けに倒れ、
何が起きたのか理解できていない少年の上で、シャク・シィは誇らしげに微笑んでいる。
状況は飲み込めないが、それでもセンは彼女に叫んだ。
「と、とにかく! 早く降りるんだ!」
「あらあら、そんなに大声を出したら、彼が驚いてしまいますわよ?」
三人を覆い隠すように、長い人影が近づいてきた。センが顔を上げると、案の定、見知ったユークの仮面があった。
「お前の指金か、クロエリ。……ちっ、いったい何のつもりだ!?」
「あら、指金とは人聞きが悪いですわね」
クロエリは無意味に片手をヒラヒラさせている。
「あなたが片思いの少女の如く佇んでいるので、シャク・シィが手助けしたい、といったのですよ。……ねぇ?」
「ねー」
二人が互いに首を傾けると、途端にセンの顔が真っ赤に染まった。弁解しようとする彼を制して、クロエリは言葉を続ける。
「それに、この話の顛末は私も気になりますしね。聞く気がないのなら、どうぞお帰りくださいな」
センは数秒間、口を開いたままだった。だが結局、何も発さずに口を閉じ、クロエリから視線を足下に戻した。シャク・シィに
もう一度退くように促すと、あっけにとられる少年に手をさしのべた。
「すまない。立てるか?」
「あ、はい。すいません」
同じような台詞を返しながら、少年はセンの手を取って立ちあがった。
「いきなりごめんね、どこか痛くない?」
急にシャク・シィが顔をのぞき込んできたので、少年は少しのけぞった。だがすぐに、微笑みながら首を振った。
「大丈夫です。どこも、なんともないです」
「そっか、よかったぁ。ほんとごめんね」
シャク・シィが両手を合わせ、あらためて謝罪していると、クロエリが口をはさもうとした。が、今度はセンに遮られた。
あまりクロエリに話をさせると、時間が掛かる。そのことをセンは嫌というほど知っていた。
「突然ですまない、だが、どうしても聞きたいことがあったんだ。……君が尋ねてまわっていた『クリスタル病』。
何か、わかったのか?」
いきなりの質問だったが、クラヴァットの少年は特に驚きはしなかった。目の前にいるリルティに、
自分が質問したことを覚えていたのかもしれない。
「あ、そのことですか。ええと、皆さんにいわれた通り、ラーケイクスさんに話を聞いてみたんです。
そしたら『クリスタル病』も知っておらて、それに、そのための薬も作ってもらえることになりました」
お騒がせしてすみません。と、少年は一礼した。
「よかったぁ、じゃあ、その村の子はもう大丈夫なんだね」
シャク・シィは胸をなで下ろし、まるで自分のことのように喜んでいた。
「はい。ただ、そのために必要なものがあって――」
「? いったい何ですの?」
クロエリの問いに、少年は視線を空に上げ、思考の糸をたぐり寄せた。
「たしか、ブルドッズの角です。薬の材料として必要で、ラーケイクスさんに取ってくるようにいわれたんです」
「……なるほどな。それで用水路の場所を聞いていたのか」
「え?」
「ああ、すまない。たまたま立ち聞きしてしまってな」
クロエリはふいに横を向いた。自分の肩を、セルキーの少女が遠慮がちにつついたからだ。
「ね、ね、ブルドッズって、何?」
「牡牛に似た姿の魔物ですわ。図体はでかいですが魔術に弱く、主に水辺に棲息しています。用水路などでも、
目撃例はあったと思いますわ」
シャク・シィは腕を組み、二度頷いた。
「ふむふむ。じゃあ君は、今からその牛の奴を倒しに行こうとしてた、ってこと?」
「ええと、そうなりますね」
彼は何気なく答えたが、センは確かめずにはいられなかった。
「……君は、一人で行くつもりなのか?」
「え? あ、はい、そうですけど」
やはり当たり前のように少年は答えた。センは、今度は諭すように話し始めた。
「ブルドッズは、魔物の中でも単純で、弱点の多い奴だ。……だが、その巨体からの攻撃は、直撃すれば怪我ではすまない。
一人で安易に仕留められるほど、生易しい存在ではないぞ」
「……簡単にすむとは思っていません。けど、村の外で、自由に動き回れるのは僕しかいないんです。それに、
あまり時間は掛けたくないんです」
重々しく頷く彼に、クロエリが言葉をはさんだ。
「クエストとして申請しても、公布されるだけでも時間が掛かるでしょうし、とうてい待ってはいられませんわね」
「……はい。だから、僕一人で行くつもりです」
少年は軽く頭をかきながら、けれどはっきりと言いはなった。
「僕ができることなら……僕がやらなきゃいけないんですから」
その言葉には、今までの彼の印象を、一変させるだけの力強さがあった。いや、むしろセンが始めて会った時の印象
は今に近いものだった。最初にこのクラヴァットの少年に会った時、その見た目からは同業者だとセンは思っていた。
着込んだ鎧の上からでも身体を鍛えていることは動きから量れたし、携帯していた剣はずいぶんと使い込んでいるようだった。
実際に彼と話してみると、田舎育ちの物腰の柔らかい少年で驚いた。コインを投げて、表だと思っていたら、裏で。けれど、
もう一度確かめると表だった。事実は何一つ変わっていないのに、判断する方が右往左往している、センはそんな心境だった。
もしかしたら、彼一人でも無事にブルドッズを倒せるかもしれない。だが――
「――色々とありがとうございました。じゃあ、僕はこれで、失礼します」
三人に深く頭を下げると、彼はすぐに背を向けて歩き始めた。村で苦しんでいる少女がいるのだから、急ぐのは当然だろう。
「――ひとつ頼みがある!」
クラヴァットの少年は無理な姿勢で立ち止まり、驚いた顔で振り返った。セルキーとユークの間にいたリルティが、
大きく声を張り上げたからだ。
センはしっかりとした足取りで、少年に歩み寄る。きょとんとした彼の前で、自分の武器や荷物を足下に放ると、
センは深々と頭を下げた。
「……自分を、雇ってはくれないか?」
「――なっ!?」
「――あら?」
「――へっ!?」
さらに小さく見えるリルティの頭上で、三種三様の驚きの声が飛び交った。
「いや、その、とりあえず頭を上げてください!」
慌てて少年はセンに促した。だが、まったく微動だにせず、そのままセンは言葉を紡いだ。
「君がギルドに申請してくれれば、クエストとして自分や、他の冒険者が手助けすることができる。だが、
それでは時間を浪費する。……ならば、君が直接、自分を雇って連れて行けば話は早い」
「それは、そうかもしれないですけど……けど、どうして!?」
どうしてこのリルティが、そんな提案をしたのか? どうしてそこまで、自分に協力しようとしているのか?
クラヴァットの少年には見当もつかなかった。だが逆に、リルティの青年はやっと、自分が彼に関わろうとする
その答えを見つけたように思えていた。
「……君の言った通りだよ。自分は、自分にできることを為し遂げたい」
ゆっくりと顔を上げ、少年の目をまっすぐに射抜く。
「自分は、だれかを手助けできる知も、だれかを救うことのできる弁も持たない。――だが、この両の手をもって
武を振るうことならできる。いや、それしかできないんだ」
普段の自分からは予想できないほどに、後から後から言葉があふれてくる。それはきっと――
「だから、この武をもって何かを為す機会があるのなら、それを見過ごしたくはない」
――結局の所自分は、度の過ぎた自惚れ屋だということなんだろう。だが、それで構わなかった。
「もう一度頼む。自分に、その機会を与えて欲しい」
一人は少し上を、もう一人は少し下を、じっと見続けていた。後の二人は、少し離れた位置でその様子を見守っている。
数分かと思われる沈黙の後で、クラヴァットの少年はゆっくりと息を吐き出した。
「……僕以外に、もっと他に、あなたの力を必要としている方がいるのではないですか?」
その問いに、後にいたシャク・シィが手を挙げた。
「ここにいるよー! ……でも大丈夫だよー」
「たしかにいるでしょうねぇ。けれど、あなた以上の方はいないと思いますわよ?」
突然の答えに、センもクラヴァットの少年も思わず苦笑していた。
「……わかりました」
そういうと彼は姿勢を正した。深く、今までの中でもっとも深く頭を下げる。
「こちらこそお願いします。僕に……いや、僕の村で待っている人たちに、力を貸してください」
「ああ。自分に出来得る、すべての限りで」
センも再びこうべをたれた。そのまま、数秒の時が流れる。互いにゆっくりと顔を上げたとき、
二人の顔には自然と笑みがこぼれていた。
「――さて、話は付きましたわね」
クロエリとシャク・シィは二人の方へと歩み寄った。かと思うと、そのまま通り過ぎ、数歩先で振り返った。
「では、さっそく用水路に向かいましょうか」
「うん! いこいこ!」
「……ん?」
「……え?」
二人の女性の提案に対し、二人の男性は首をかしげた。片方はその意味をくみとり損ねたが、もう片方はすぐに気がついた。
「まさか……お前たちもついてくる気か!?」
「もっちろーん」
「無論ですわ」
「けど、そんな――」
同時に頷いた女性陣に、慌ててクラヴァットの少年は何かを言おうとした。だがその前に、クロエリの大きな手が、
彼の顔全体を塞いでいた。
「いまさら野暮なことはいいっこなしですわよ」
「そうそう、旅は道連れ、世は情け。……困っている人がいたら、放っておけないよ」
「まあ、あれですわ。別段あなたのおかげで私たちがセンにふられてしまったから、その埋め合わせをしていただきたいとか、
そのようなことは微塵も考えてはいませんので、ご心配なく」
「――お前は脅す気か!?」
と、センは目で訴えたが、クロエリはちらりと見ただけですぐ視線をそらした。クロエリが手を離すと同時に、
少年は大きく息を吐き出した。少し息を荒げながら彼女たちの顔を交互に見る。そして息が落ちつくとすっかり肩を落としていた。
「……はい、よろしくお願いします」
自分の責任であると感じて、センはうなだれる彼を直視することが出来なかった。その様子を見て、
クロエリがにやにやしているような気がするのも、おそらく気のせいではないのだろう。
「とにかく――」
わざとらしく咳をしてから、リルティは続けた。
「すぐに出発しよう。用水路は近いが時間が時間だ」
すでに空の端は暗褐色に染まり始めていた。
「早いにこしたことはありませんわね。必要と思われる物資は、いくつか手持ちにありますわ。この人数とその場所なら、
十分足りると思いますわよ」
「お世話になります。僕の方は、いつでも出られます」
三人の言葉に頷くと、シャク・シィは飛ぶように動き出した。
「よし! それじゃあ、すぐに出発しよ、クロエリ! セン! それに……」
まっさきに走り出した彼女の背中が、ぴたりと止まった。ゆっくりと振り返るその顔には、ばつの悪そうな笑顔が張りついていた。
「……ごめん、名前……なんだっけ?」
「――っ!」
「……あら?」
「――あっ!……たぶん、まだ言ってないと思います……」
三人はクラヴァットの少年の名を知らなかったし、彼もまた、三人の名前を知らなかった。四人が顔を見合わせる中、
異様な空気が流れていた。だが、その静寂をかき消すように笑い声が聞こえてきた。
「……セン?」
シャク・シィは始めて、センが声を出して笑う様を目にした。
「ああ、いや……すまない。――ただ、何をやっているんだろうと思ってな」
自嘲気味に笑いながら、センは空を見上げた。
「――まったく。互いに名も名乗らずに、雇ってくれ、はないなぁ?」
「――いえ、僕こそすいません。……なんだろう、とっくに……話したような気がしてたんです」
いつの間にか彼も笑いだし、シャク・シィも笑っていた。クロエリは、笑っているのかどうか仮面に隠れてわからなかったが、
口の辺りに手を当て、軽く身体を震わせていた。最初から四人の行動を見ていた人がいれば、さぞ首をかしげただろう。
いや、男女、種族の入り交じった今の光景だけで、十分に異様な光景だった。
ひとしきり笑った後で、センは小手を片方はずした。それを脇に抱え、裸になった片手を拭うと、
クラヴァットの少年に向かって差し出した。
「自分は、セン=シュウキという。……セン、と呼び捨てで構わない」
「あ! わたしはシャク・シィ。よろしくね!」
「私はクロエリと申します。どうぞよしなに」
少年は頷き、自分の片手を服で軽く拭った。
「僕は……コウスイといいます。――よろしくお願いします」
そしてコウスイは、センの手を強く握りしめた。センも思わず、握り返す手に力がこもる。その様子をシャク・シィは嬉しそうに、
クロエリは楽しそうに見守っていた。
その場にいる誰一人、予想だにしなかった。だがたしかにこのとき、一つのギルドが成立した。
後にこの日の出来事を、コウスイは深く悔いることになる。
だが他の三人、センも、クロエリも、シャク・シィも、欠片も後悔することはなかった。
黄昏の空の下。彼の、コウスイの誕生日が終わろうとしていた。
だが同時に、大きな何かが始まろうとしていた。